2022.6 太宰治を巡る旅

旅の空

私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。つるを糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚さんごの首飾りのように見えるだろう。
 しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種をき、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。太宰治『桜桃』

「桜桃」は、太宰の最後の短編小説。夫・父としての苦悩を思うと、私が若い時に惹かれた太宰とは違う感情に心を揺さぶられる。
6月19日 太宰の誕生日であり、遺体が発見された日である桜桃忌に、いつか太宰の暮らした地を訪ねてみたいと思っていた。大好きだった20歳から、太宰の厭世観を振り切って実人生をたくましく生きてきた40年。なぜあんなにも惹かれたのか、今の私は太宰の作品をどう読むのか?
桜桃忌の6月に太宰治を巡る旅に出ました。

旅の初めは、「銀座ルパン」昭和3年から、今なお営業を続けている老舗バー。
多くの文豪や芸術家に愛された歴史あるバーです。

地下1階への階段を降りると目の前に有名な太宰の写真。40年前にタイムトリップして心が躍ります。
実は前日に訪れた時は閉店間際で入店できず、2度目の来訪で夢が叶いました。
バーなので早い時間は空いているかと思ったのに、18時で既にカウンター席が数席空いているのみでした。由緒正しい昔からの雰囲気を大切にした店の内装は開店当時の調度品のままです。太宰が胡坐をかいて座っていたカウンター隅の椅子もそのまま。座りたい!!でも先客がいました。今度は開店を待ってチャレンジします。

頼んだのはモスコミュール、銅のカップに大きなレモン。きゅうりのピクルスは唐辛子がピリッと辛く、辛口のモスコミュールと、とても合います。
時を超えて、太宰と同じ空間に居ることに信じられず、目を閉じて静かに浸っていました。
女性スタッフの方が察してくれて、お店のマッチを、そっと置いてくれました。
林忠彦が太宰の写真を撮るために入ったトイレにも入ってみました。そこから太宰の席を眺めるだけで感無量だよね。幸せな銀座の夜でした。

翌日は、addressの拠点がある三鷹市に移動して、太宰が約7年半を過ごし、生涯で生み出した150作品のうち、約90作品を書いた三鷹の地を巡ります。

初めに、三鷹駅近くにある「三鷹市美術ギャラリー 太宰治展示室」に向かいます。
令和2年12月に完成した「三鷹の此の小さい家」は、最後の住まいである三鷹の太宰宅を再現した展示室です。太宰作品の舞台にもなり、その暮らしぶりを体験できる涙ものの空間です。無料!!

新築とはいえ12坪ほどの小さな借家は、親子5人が暮らすには質素でも、つかの間の家族との平和な日々を過ごしたのでしょうか。6畳の仕事部屋は撮影OKでした、家の中で一番大きなこの部屋で作品を生み出し、編集者や作家、学生など訪れた多くの人と文学談義に花を咲かせたのだろうと思いを馳せました。

仕事机に座って、太宰の原稿を書写することもできます。
机上の書籍は、太宰が亡くなった時に自宅にあったもの。実際に太宰が読んでいた本かと思うと手が震える。 ちょうどNHKテレビが取材に来ていて、インタビューを受けました(^^ゞ

三鷹市美術ギャラリーで、太宰治マップを手に入れました!!そうそう!これが欲しかった。
ご丁寧におすすめルートがあり、太宰の足跡を辿ることができます。ありがとう!三鷹。

太宰一家が利用した伊勢元酒店跡地に「太宰治文学サロン」が開設され、直筆原稿の複製や初版本、初出雑誌など様々な貴重な資料を公開しています。太宰愛があふれています。飲み物の提供もあり、棚の本は、珈琲を飲みながら自由に読むことができます。

情死の相手、山崎富栄の日記と遺書「雨の玉川心中」を読む。ひたむきな愛の喜びと苦しみが切ない。

山崎富栄の下宿先だった野川家二階、目の前の小料理屋「千草」は太宰の仕事部屋でもあり、2人は頻繁に利用していた。
6月13日夜半、2人はここから玉川上水に向かう。長い道のりの情死行かと思っていましたが、玉川上水まではわずかな距離でした。向こうに見える木々が玉川上水です。

広々と見通しがよかった玉川上水は、木々が鬱蒼と茂るなか、わずかに小川が流れています。

玉川上水沿いの道は、三鷹の森ジブリ美術館に向かう道です。

太宰が入水したと考えられる場所、故郷青森県金木町の玉鹿石が、太宰を偲び、石碑として置かれています。しのつく雨の夜、山崎富栄の下宿からここまで、最後に二人は何を話したのだろう。
情死の原因は今なお闇の中ですが、太宰に死ぬ意思があったのは確かなようです。
富栄の遺書「わたしばかり幸せな死に方をしてすみません。(中略)愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。せめてもう1,2年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこ迄もすすみとうございますもの」
太宰の妻への遺書は遺族の意向により一部のみ公開
「子供は皆 あまり出来ないやうですけど 陽気に育ててやって下さい たのみます ずゐぶん御世話になりました 小説を書くのが いやになったから 死ぬのです 津島修治 美知様 お前を誰よりも愛してゐました」

太宰の居宅は取り壊され別の方が住んでみえます。玄関の百日紅が向かいの「みたか井心亭」に移植されています。
「さるすべりは、これは、1年おきに咲くものかしら」と呟きました。玄関の前の百日紅は、ことしは花が咲きませんでした。「そうなんでしょうね」私もぼんやり答えました。それが、夫と交わした最後の夫婦らしい親しい会話でした。」太宰治『おさん』

三鷹駅前の賑やかな街並みから30分ほど歩いた太宰の自宅辺りは、今でも静かな住宅街です。

さらに30分ほど歩くと、太宰の墓がある禅林寺に着きます。
訪れたのは19日の桜桃忌の2日前でしたが、おなじみの墓に埋められた桜桃(さくらんぼ)、花、お酒などが手向けられていました。重なったのはベビーカーの若いママさんだけ、2日後には大勢が訪れるのでしょうね。
太宰の墓は美知子夫人の意向で1年後に建てられた。そして、弟子でもあった田中英光がその数か月後に、ここで自殺を図った。

太宰の墓の向かいには森鴎外の墓があります。太宰の作品の一節を踏まえて、美知子夫人が禅林寺に頼んで、ここに建てたそうです。
「ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救ひがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、」太宰治『花吹雪』

禅林寺から三鷹駅まで戻る。10時に出発して、2時間半。疲れた~
最後のゆかりの場所に向かいます。

三鷹駅の跨線橋(陸橋)昭和4年竣工した当時のままです。銀座ルパンとこの場所だけが、当時のまま残っています。しかし、老朽化で取り壊しが決まっているそうで、これが見納めかもしれません。

広々とした武蔵野の風景が見渡せるお気に入りの場所だったようで、弟子や編集者を案内することもあったそうです。橋にもたれた写真も残っていて、同じ場所に立ってみました。

太宰の作品を読み返しながら巡ったゆかりの地。
若かった私は、反俗・反権威・反道徳言動の無頼派に共鳴して、それゆえに破滅していく魂に心揺さぶられたのです。生活の安定を大事と考える小市民を、罵倒する太宰に拍手喝采したのです。二重回しのマントを羽織って闊歩し、既成の権威に筆一本で戦いを挑み続けた太宰はただただカッコよかった。そして、反面、気弱で繊細で優しい太宰にも救われ癒されていたのです。
今回の旅で、そんな若かった自分が今も本質的には変わっていないことに気づき、ただ・・
三鷹の小さな家でのつかの間の平和な日々と、子供を想う親心に触れ、
家族を愛しながら守ることができない、どうしようもない葛藤と苦悩が切なかったのです。
情死を遂げた太宰から、若かった私は死の臭いをかぎ分けて、怖くなって離れたのですが
今の私にとって太宰は、葛藤と苦悩を抱えながら、それでもいかに生き延びていくのか?
生きる意味は何なのか?それを考えさせる存在なのかもしれません。

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